ペルシア絨毯の産地/ エスファハーン (イスファハーン)


絨毯を織る女性たち。イラン・エスファハーンの絨毯工房にて/撮影安井浩美

 

エスファハーン (イスファハーン) の絨毯工房

 

サファヴィー朝の古都エスファハーンは、シャー・アッバース1世の遷都、建都により、世界の半分と形容されるほどの華麗さを誇り、かつて王宮の絨毯工房が宮廷の一画にあったといわれる。1722年のアフガーンの侵略により、街は壊滅的な打撃を被り、やがてサファヴィー朝は崩壊する。続くアフシャール朝はテヘラーンが首都となり、ザンド朝はシーラーズ、ガージャール朝はテヘラーンを都としたため、エスファハーンに復興の手が加えられることはなかった。

 

エスファハーンに絨毯づくりの再開がやってくるのは、19世紀末のことであり、街が本格的に復興するのは、1925年のパハラヴィー朝以降のこととなる。19世紀末から20世紀初めのエスファハーンの統治者は、ガージャール朝4代ナーセロッディーン・シャーの長子ながら妾腹の王子マスウード=ミールザー・ゼッロッソルターン(Mas’oud-Mirza Zell-os-Soltan/1850-1918)であった。彼の治世は決して評価の高いものではなかったようだが、絨毯に関わることは幾つか挙げられる。近代におけるエスファハーンの代表的な意匠、花瓶文の反復柄であるゼッロッソルターニーのデザインは彼の名が起源となっている。

 

エスファハーン絨毯の復興に大きく寄与したハギーギー工房の最初の特筆すべき注文もゼッロッソルターンの全身肖像絨毯であったという。資料が少ないため、工房項目には立てないが、このほかエスファハーン初期の絨毯工房としては、アブドッラヒーム・シューレシー(Abdurrahim/Abd-or-rahim Shureshi/1869-1930)、アフマド・アジャミー(Ahmad Ajami)、ロトフォッラー・ナードリー(Lotfullah/Lotf-ollah Nadori)などが挙げられる。

 

ここで姓名の解説を加えれば、アブドッラヒームとは、abd(僕)+al+rahim(慈悲深い)で、「慈悲深き者(アッラー)の僕」という意味。アラビア語の定冠詞alに続くラヒームの最初の文字< r >が太陽文字なので促音となり、Abd-or-rahimになる。前出のゼッロッソルターンも同様で、zell(影、保護)+al+Soltan(スルタン、王)で「王の影」あるいは「王の庇護」という意味で、alに続くソルターンの最初の文字< s >が太陽文字なので、Zell-os-Soltanとなっている。シューレシーはシューレシュ(Shuresh/革命、反逆)に由来。アジャミーはアラブから見た外国人、ペルシア人を意味する。ロトフォッラーはシェイフ・ロトフォッラーのモスクの名で馴染み深く、ロトフ (lotf /正直な) + アッラー (allah /神)。ナードリーは、ナードル(nadr/稀な、珍しい) からくる稀な人々の意味である。

 

そして1925年からのパハラヴィー朝にはエスファハーンの復興とともに、レザー・シャーによる絨毯振興策によりエスファハーンの絨毯産業も大きく発展することとなった。続くモハンマド=レザー・シャーの時代も絨毯振興策は継続された。

 

※「ペルシアの絨毯工房」から抜粋

 

世界遺産・サファヴィー朝の古都エスファハーン/ 風景

 

エスファハーンのエマーム広場

サファヴィー朝ペルシアのシャー・アッバース一世によって建造された、東西約160メートル、南北約500メートルの広大な広場。革命前はシャーの広場と呼ばれていたが、今はエマーム広場と呼ばれている。世界遺産にも登録(1979年)されている。

 

アーリーガープー宮殿テラスからの眺望

撮影/西村 勝正

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エマーム・モスク

西南のエィヴァーン(礼拝堂前門)

撮影/西村 勝正

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)

中庭

撮影/西村 勝正